エヴァの感想など

このblogを振り返ってみると、映画の感想はいろいろ書いてきたけれど、エヴァの感想はほとんど書いてなかったようです。特に意味があってのことでもありません。たまたまです。

ですが今回は重たい腰を上げてぼちぼち筆を執ってみようと思います。

 

結論から言えば、「シリーズを完結させた、そのほかには特に値打ちも見どころもない映画」、それが私の感想です。

そもそもの話として、旧エヴァがどんな話だったかといえば、「互いに求めあいながら傷つけあい恐れあうしかない人たち」「大人になれない大人たち」、そういう話だったと思います。

旧劇場版ではいったんは人類みな1つに溶け合ったけれど、シンジは「それじゃ僕がいないのと同じだと思うから」と言って再び傷つけあっても分かれる道を選んで、でもやはりうまく思うように触れ合えなくてアスカの首をしめて殺そうとし、それさえ果たせず例の「気持ち悪い」で終わりました。

 

さて、時は流れて新劇場版の序。これについては簡単に感想を書き記しています

「自分の子供を信じてください!」 この辺が大分に違うように思ったのですが他の人の感想はどうなんでしょう。

改めて旧劇場版と見比べてみると、シンジは明らかに旧に比べてコミュ強になっていて、ミサトともすんなり馴染み、トウジやケンスケともいかにもエヴァ以前のアニメの王道的な筋道を経て仲良くなります。旧エヴァのような、人とのつながりを恐れる様子はずっと薄くなっていました。

周囲の大人たちもどこか様変わりして、ミサトにしても上の感想で書いたように「他人を信じる」というかつてのヤマアラシのジレンマや大人のくせに大人げない態度からはかけ離れた言動をします。

これを見て私は「新劇場版は旧とは打って変わって、互いに傷つけあったとしてもその先に得られる大切なものがある、大人は子供の前では大人であれ、という物語にしたいのだな」と思いました。

 

さて、破に入ってもそのような流れが続くかと思われました。

抜粋すると、綾波もアスカもシンジのために料理を試み、かつてオバサンと言われ幼児レイを縊り殺したリツコは綾波の指に絆創膏を巻いてやり、アスカはレイのためにテストパイロットの肩代わりを申し出、ミサトはアスカに「この世界はあなたの知らない面白いことで満ち満ちているのよ。楽しみなさい」と諭します。

しかしその直後、ほころびが見え始めます。

アスカが第9の使徒に取り込まれた時、新劇場版の人々ならば「アスカを救えるのはシンジ、お前だけだ」「僕がやらなきゃアスカが…!」となるのかと思いきや、旧そのものの煮え切らない振る舞いで旧そのままにエヴァを下ろされるにいたります。大人の皆も後になってシンジを責めるだけ。

かと思えば第10の使徒にレイが取り込まれた時にはシンジはすべてをかけて救いにかかる、この矛盾。この時点ではシンジはレイに心惹かれていたのであってアスカにはそうでなかった、一応それで説明は付くんですが、主人公の振る舞いとしては一貫性にかけるところです。仮にもアスカは一緒に暮らし、一緒に戦い、お弁当を作る間柄なのに。

 

さて、Qに至って破綻は決定的になりました。

のっけから「あなたはもう、何もしないで」「エヴァには乗らんといてくださいよ!」「ガキね」、誰も何も説明せず、ひたすらシンジを傷つけ拒絶しあるいは無視し、わかり合いなど微塵も感じられないシーンの連続。

カヲルくんでさえ、槍を目にしたとき思わせぶりなことを言うばかりでなぜ抜くべきでないのか、無理に抜いたら何が起きると思われるのか、全く伝えようともしません。

序と破の途中まであった「傷つけあうことを乗り越えてつながり合おうとする人たち、わかり合おうとする人たち」の流れは全くなく、「ただひたすらシンジを傷つける人々」「大人らしい振る舞いを全く見せない大人たち」が描かれただけでした。

主題として、ストーリーとしてはもう完全に断絶したとしか言いようがありません。

 

それから長い時が流れて、この度のシン劇場版です。 

 

「なんやこの茶番」

第三村のシーンで私の口をついて出た、嘘偽らざる本音です。

第三村で描かれたのは「ほとんど無条件に受け入れられるシンジと黒綾波」であり、「人と人は互いに傷つけあう」という前提を完全に否定したともいえるあまりにナンセンスな情景と言わざるを得ません。

エヴァの「互いに傷つけあうしかない人たち」でもなければ、新劇場版初期に見られた「傷つけあうことを乗り越えた先にはかけがえのないものがある」でもない、ただ「無条件に受け入れてくれる牧歌的で家庭的な共同体」、すぐ外側には亡びが広がるこの場所で、これが茶番でなければ一体何なのか。Qとは180度違う方向にコンセプトがぶれたとしか言いようがありません。

全体を通してみても、冒頭の崩壊したパリはナディアの焼き直し、タイムアップに追われるのはマギ攻防戦やジェットアローンの焼き直し、後半の戦艦ミサイルはシンゴジラの焼き直し、戦艦特攻はやはりナディアの焼き直し、ほかにもどこかで見たことあるシーンとネタの連続で、演出に新規性も進歩も見られないコピペだらけのやっつけレポート状態。

アディショナルインパクトだのイマジナリーエヴァンゲリオンだのここにきてまた「それっぽい」ワードをずらずら並べ立ててきたかと思いきや、ゲンドウの「私は陰キャでした、ユイに救われました、それが失われて悲しかったのでなんとかしたかったです」の昔語り。それもうみんなとっくに知ってるから今更以外の何物でもないし、かといってエヴァにのってシンジとタイマンしてノして「見たか、オヤジの強さ、偉大さを」って、そんなキャラでもないでしょ、ゲンドウ君。

戦闘シーンも量産型という名のコピペの嵐で、ただガチャガチャ高速で動かしているだけでタメもヌキも緩急も感じられないもの。旧劇場版で見せたあの圧倒的な迫力と重厚感はどこへ行ったのか。

ミサトはいつのまにやら子供を産んでなおかつ放り出して一切タッチしない、それゲンドウ君となにも変わらないですよね。なのにミサトは悲劇の英雄で、ゲンドウは拗らせたあげく世界を崩壊させたダメ親父扱いってどういうことなのかと。

ヴィレクルーのセリフも陳腐でチープなお涙頂戴ばかり。「シンジがあそこでエヴァに乗ったからニアサードインパクトが起きた、でも乗ってなかったら人類は滅びてた。わかってたんだ、そんなこと」って、今更それかと。

挙句にオチが「僕は突然空から降ってきた乳がデカくていい女に救われた。レイ?アスカ?彼女たちもエヴァのない新しい世界で幸せになるといいね」ってなめとんのか貴様としか言いようがないわけですよ。

旧劇場版で「別々に分かれたはいいけれど、結局うまく触れ合えずに傷つけあってしまうだけ」で終わったシンジが、新劇場版では「触れ合う中で互いに傷つけあってもその中でぬくもりを得られる、そのためなら傷つくことを恐れない」という、すったもんだの果てに一皮むけたシンジとして終わるならわかるんですけどね。

とはいえ、おそらく当初は私が序に感じたようにそういう話をやりたかったんじゃないかと思います。

それがどんどん間が空いて時間がたって庵野監督自身も取り巻く環境も変化して、そのような物語を描くことができなくなってしまったのではないか。これは私の勝手な想像にすぎませんけれど。

だから、たとえ完成度がもうちょっと低くても当初の構想と熱意が薄れないうちに早く完成させて公開しなければならなかったんだと、私は思いますね。

時間の経過は敵。

完結させたことは偉いけど、あまりに時間がたち過ぎた結果、駄作に終わった。

以上、四半世紀を超えたシリーズへの私なりの終止符です。

 

本当に今更だけど、マグマダイバーとか、瞬間、心重ねてとか、好きだったんですよね。